地図で読み解くフランスの歴史② フランク王国の誕生 | FRON [フロン]

地図で読み解くフランスの歴史② フランク王国の誕生

こんにちは!フランス長期留学経験者、現在ハンガリー在住ライターのPapico(ブログはこちら)です。

さて、今回はフランスの歴史の第2回です。

現在のフランスがある場所には西ローマ帝国という巨大な帝国が395年には存在していました。

果たしてこの西ローマ帝国がこのあとどうなるのか。それでは早速みていきましょう!

 

西ローマ帝国の滅亡とフランク王国の誕生

ローマ帝国の東西分裂のきっかけの1つともなった西ゴート人たちはローマ帝国が東西分裂したあとも西ローマ帝国にたびたび侵攻しました。

418年には西ローマ帝国の南ガリアに侵攻すると、そこを支配し西ゴート王国を建国しました。

 

しかしながら、西ゴート王国のガリア支配は長くは続きませんでした。

西ゴート人たちがガリアの地を支配する前からガリアに住んでいて、北ガリアを支配していたフランク人たちが507年にフランク族の王様であったクローヴィスに率いられ、西ゴート王国に侵攻し、この地を支配しました。(ヴイエの戦い)

敗れた西ゴート人たちは同じく支配していたイベリア半島に完全に移り、フランク人たちはガリアの地にフランク王国を建国しました。

 

また、この頃には西ローマ帝国はすでに滅亡していました。

度重なる異民族の侵攻により、力を失っていた西ローマ帝国は476年傭兵隊長だったオドアケルがクーデターを起こし、当時のローマ皇帝だったロムルスをローマから追放。これにより西ローマ帝国は滅亡しました。

しかしながら、オドアケル自身も489年当時フン人たちに支配されていたもののその衰退により支配を逃れ、現在のハンガリーの地を支配していた東ゴート人の王様だったテオドリックに倒されました。(イゾンツォの戦い)

勝利した東ゴート人たちはこの地に東ゴート王国を建国しました。

ブルグンド王国はブルグンド人という民族の王国で、西ローマ帝国が存在していたときに、西ローマ帝国を異民族、とりわけフン人の侵攻から守るためにともに戦いました。(カタラウヌムの戦い)

それ以来、西ローマ帝国の政治に介入し、帝国滅亡後は東ガリアの地にブルグンド王国を建国しました。

メロヴィング朝の始まりと終わり

フランク王国はフランク人という民族の国家ですが、フランク人たちの間には様々な家族のつながりがあります。

フランク王国を建国した王のクローヴィスはメロヴィング家出身だったので、クローヴィスが治めるフランク王国の王朝の名前はメロヴィング朝といいます。

メロヴィング朝はクローヴィスのもとで領土を拡大するなど支配を拡大していきましたが、クローヴィスが亡くなるとフランク王国は4人の子供たちによって分割され、4つの別々の国として統治されます。

その後、息子の1人だったクロタールにより4つの王国は1つの王国に再統一されるも彼がなくなった後は息子たちにより再度分割されましたが、クロタールの孫の1人だったクロタール2世により再統一されました。

このようにフランク王国メロヴィング朝は不安定な王朝でした。

そんな中、711年にイスラム教の帝国だったイスラム帝国ウマイヤ朝がイベリア半島に侵入し、西ゴート王国を滅ぼすと(グアダレーテの戦い)、彼らはフランク王国にまで侵攻しようとしました。

これに対し、732年メロヴィング朝で宮宰という役職についていたカロリング家のピピンが騎馬隊を組織し、これに迎え撃ちウマイヤ朝を撃退します。(トゥール・ポワティエ間の戦い

これによりフランク王国内でカロリング家の名声を高めたピピン3世はメロヴィング朝の王を追放し、自身が王座につきます。これによりメロヴィング朝は終了し、カロリング朝が始まりました。

 

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